6月12日鹿児島県を訪れた目的の一つは、1753年宝暦治水工事総奉行の平田靱負(ゆきえ)と薩摩義士の碑を訪れる事でした。
私の生まれ育った岐阜県海津町では、子供の頃から誰もが、平田靱負、薩摩義士のことは聞かされて知っていました。
薩摩藩家老の平田靱負の像
約250年前の濃尾地方、今の愛知県の木曽川、岐阜県の長良川、揖斐川の木曽三川下流一帯が、乱流していたため、洪水を繰り返していた。
被害を防ぐため、江戸幕府は、財力のある薩摩藩に木曽三川の治水工事(分流工事)を命じた。
薩摩藩の家老平田靱負は、総奉行として約1,000名を率いて、大阪で資金を調達して、治水工事に向かった。
幕府役人の圧迫妨害、工事中の洪水、流行病の発生、人手や資金の不足などを乗り越え完成させた。
巨額な工事費(40万両)と多くの犠牲者(病や切腹)を出した責任を取り、完成後美濃国大牧村(今の養老町)で平田靱負は自害した。
鹿児島市の平田公園の平田靱負像
平田靱負誕生の地で、毎年鹿児島県が岐阜県からの参列者を招いて、慰霊祭が開かれる。
岐阜県の海津市の治水神社でも慰霊祭が行われる。
宝暦薩摩義士の碑
平田靱負、木曽三川工事のことが詳しく説明されている。
当時の入り乱れた三川 左から揖斐川、長良川、木曽川。
木曽川治水千本松原絵巻
油島の締め切り工事後、松が植えられ、向こうの川は、揖斐川、手前が長良川。
今の岐阜県海津市の千本松原、右が揖斐川、左が長良川、さらに左の方に木曽川が流れる。
平田公園の松は、海津の治水神社のある千本松原松を思い出させた。
薩摩義士碑は平田公園から離れた黎明館近くの城山公園のふもとにある。
洪水による難工事、幕府役人の横暴や疫病で、自刃したり病死で、87名(うち54名自刃)で亡くなった。
幕府の命令で、遠く離れた何の関係も無い薩摩藩の方々が、はるばる濃尾平野の荒れ狂う三川に生きる民のために行った治水工事で、多くの犠牲者と多額の費用を払われた事に、昔のことではありますが新ためて感謝の気持ちを持ちました。
木曽三川はその後、明治になってオランダから来日した土木工学専門の
ヨハネス・デ・レーケが、大規模な改修工事を行い、今の木曽三川の形になりました。
話は変りますが、3月11日に起きた未曾有の東日本大震災の復興に、多くの人々の援助とお金と時間がかかります。
将来の子供たちが安全に暮らしていけるように、しっかりした土地利用計画を立て素早く実行してほしいです。