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3月24日(日) 田舎(海津市)のお千代保稲荷(おちょぼいなり)へ
なまずの蒲焼
お千代保(おちょぼ)さんの「やまと新館」さんで、なまずの蒲焼をいただきました。
子供の頃、一度食べたことがありますが、ほんとうに久しぶり・・・
お千代保さんは、うなぎの蒲焼も有名ですが、なまずの蒲焼も名物です。
なまずの蒲焼は、白身で、しっかり焼いて、甘辛く、うなぎより あっさりして 美味でした。
父は、皮から骨までしゃぶり 美味しそうに食べてました!
油揚げを お供えして お参り
門前通りは、賑わってました。
親戚のおばさんが、摘んできた つくし
2月18日(日) 会津若松市 日新館へ
1803年 飢饉や政策の失敗により、苦しい会津藩を立て直すために藩校日新館を作り、人材育成に力を入れた。
当時は、鶴ヶ城の西側にあり、会津戦争(戊辰戦争)で消失したため、現在の建物は、1987年に、会津若松市内から北へ9kmくらいのところに復元された。
日新館を守る獅子
日新館の入り口の南門
戟門(げきもん) 太鼓をおいて時を知らせた。
大学
文武両道
漢学、天文学、蘭学、精密学(化学)などに渡る多数教科制
兵学、弓術、刀術など武芸全般
小学校から大学まであり、
素読所は10歳になった武士の子供が入学して学び、
15歳になって成績の良いものは大学へ入学できた。
白虎隊(16〜17)の少年たちも学んでいた。
さらに優秀な者は江戸へ遊学(山本八重の兄の山本覚馬も行っている)へ。
大成殿 孔子が祭ってあるところ。
孔子(儒教の創始者)
武士道の基本を孔子の教えに基づいて教育した。
長くて鋭い氷柱〜この日は雪がさんさんと降っていました!
素読所や東塾、大学などの回廊の建物
「日新」の名は、四書五経の大学・伝二章の
「苟(まこと)ニ日モ新タナラバ日ニ日ニ新タニ又日ニ新ニセン」文に由来。
日新館へ入学する前の6〜9歳までの子供たちは「什(会津藩における藩士の子弟を教育する組織)の掟」を教え込まれた。
一、年長者の言ふことに背いてはなりませぬ
二、年長者には御辞儀をしなければなりませぬ
三、虚言を言ふ事はなりませぬ
四、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
五、弱い者をいぢめてはなりませぬ
六、戸外で物を食べてはなりませぬ
七、戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです
現在の「あいづっこ宣言」
一、人をいたわります
二、ありがとうごめんなさいを言います
三、がまんをします
四、卑怯なふるまいをしません
五、会津を誇り年上を敬います
六、夢に向かってがんばります
やってはならぬ やらねばならぬ ならぬことはならぬものです
日新館を訪れて、江戸時代の会津藩の教育水準が高かったのに驚きました。
会津戦争で負け、明治になり、教育者など優秀な人材を輩出しています。
現代、平和な私たちですが、デフレ、原発、防衛、TTP、高齢化社会など色々な問題が起きています。
苦難な今、優秀な人材が必要、教育が大事だと・・・
2月17日(土)鶴ヶ城へ(福島県会津若松市)
雪をかぶっり凛とした風格を持った鶴ヶ城(現在の城は復元されたもの)
美濃3万石の高須藩から養子に来た「容保」は、会津藩の家訓を守る覚悟で、至難な役目の京都守護職を引き受け、力を尽くします・・・・
・・・(この幕末時代の歴史は分かり難いですね〜)・・・
幕府軍の会津は、会津城で激戦の上、降伏・・・
鶴ヶ城は、NHK大河「八重の桜」の主人公の山本八重が、会津戦争で籠城してスペンサー銃を持って戦ったところです。
新しく葺かれた赤瓦
お庭の松には、雪の重みから枝が折れるのを防ぐために、縄を円錐形に張ってありました。
知恵だけでなく美観を持った日本の伝統技ですね。
『荒城の月』の記念碑
作詞の土井晩翠は、この鶴ヶ城と仙台の青葉城をモチーフにして書いたそうです。
『荒城の月』の歌を歌う時、会津城の歴史を思いを浮かべることでしょう〜